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学校行事

中学3年生修学旅行リポート 3日目

2021/10/29

3日目 奈良→宇治→京都

10月27日(水)、修学旅行も折り返しの3日目となりました。さわやかな晴天の中、まずは春日大社に向かいました。藤原氏の氏社で、鮮やかな朱塗りが印象的な神社です。朝早く静かな境内に何ともいえない風情がありました。

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春日大社を抜け階段を上がると、鹿がゆったりと草を食む若草山が右手に広がります。道なりにしばらく進むと東大寺に到着。東大寺にある建築のなかで最も古いのが三月堂です。天平仏を代表する絢爛豪華な不空羂索観音を本尊として祀るお堂で、旧暦3月に法華会が行われるようになったことから法華堂、あるいは三月堂と呼ばれるようになったとのことです。生徒は本尊の荘厳な姿に何らかの感慨を持ったようです。また、隣接する二月堂は清水寺と同じ「舞台造り」で、こちらは旧暦2月にお水取りが行われることから二月堂とよばれるようになった由。舞台の上からは天高く晴れ上がった空の下、大仏殿や奈良市を一望でき、秋の風情を感じることができました。

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坂道を下ると大仏殿です。昨年はコロナウイルス感染症拡大の影響もあり、ほぼ貸切状態でゆっくりと見学できましたが、今年は黄色い帽子の地元の小学生の団体などが多数いて、コロナ前の状態が多少戻ってきた感がありました。月並みな言い方にはなりますが、生徒たちは初めて見る奈良の大仏の大きさにまさに圧倒されていました。

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東大寺見学の最後は南大門です。社会科や美術の教科書で何度も見た金剛力士像は運慶・快慶によって作られたもので、その実物を目の前にして生徒は強い印象を受けたようです。教科書の写真でしかなかったものが生徒の中で確実な像を結び、「これまでの架空の世界が現実に変わった」瞬間だったのかもしれません。それこそが、修学旅行の最大の狙いです。

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東大寺を後にして、徒歩で興福寺へと移動しましたが、歩くことで生徒は旧平城京の規模を身をもって感じたことと思います(広いようで狭い、狭いようで広い・・・)。興福寺は、710年の平城遷都と同時に中臣(藤原)鎌足の息子で当時の権力者だった藤原不比等が、藤原京の厩坂寺を新都に移したのがはじまりです。藤原氏の氏寺であり、古代~中世を通じて世俗的な意味でも権勢を誇りました。宝物館には数多くの国宝があり、中でも脱活乾漆像の阿修羅像は、細身で華奢な体躯に少年のような顔というおよそ阿修羅らしくない姿ですが、それがかえって他に類を見ない圧倒的な美術的光彩を放っていて、殆どモダンとも言って良いスタイルです。これが8世紀半ばの作というのは、信じがたいことです。

興福寺では、境内を一回りして、北円堂や南円堂、そして巨大な五重塔なども外観を見学しました。そして、いよいよ京都へ移動です。

京都最初の見学地は宇治平等院です。例年は鳳凰堂の内部拝観を行ってきましたが、現在堂内の修復作業が進行中で、さらに新型コロナウイルス感染防止対策も必要とあって厳しい入場制限があり、今年は見学を断念せざるを得ませんでした。その代わり、今年は外からの見学のほかは、鳳翔館(宝物館)でかつて鳳凰堂内を飾っていた雲中供養菩薩や屋根の上の鳳凰のオリジナルをじっくりと見学しました。

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続いて、同じく宇治にある黄檗宗(おうばくしゅう)大本山の萬福寺へと向かいました。生徒には意外なことかもしれませんが、この寺は「鎖国中」のはずの1661年に中国僧である隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開かれました。江戸幕府の後援も受け伽藍が整備されましたが、明末・清初の混乱の影響もあったのでしょう、隠元は結局帰国せず日本で亡くなっています。堂宇は、中国明朝の様式を多く取り入れており、屋根の反り方からして日本の多くの寺とは異なります。また、本尊の布袋もかなり中国風です。江戸初期の日本が中国とはある程度の交易・交流があったことをうかがわせる寺院でした。この寺は、中華風の精進料理のような普茶料理でも知られます。

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いよいよ京都市内に入ります。バスで北上し、木造の建造物としては日本一の高さを誇る五重塔がある東寺に到着しました。弘法大師空海が密教を伝え広めるために平安京内での建立を特に許された寺で、講堂ではその教えをわかりやすく視覚的に表現した立体曼荼羅が見られます。生徒たちは、密教世界を体現しているという仏像群に圧倒されているようでした。

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夕食までの時間を使って、豊臣秀吉に関係の深い、京都国立博物館近くの一帯を見学しました。その一つが耳塚です。秀吉による文禄・慶長の役では、武士達は戦功の証として朝鮮半島から討ち取った相手の耳や鼻を持ち帰りましたが、この耳塚はその供養のために作られたと伝えられます。生徒たちは非常に驚いていましたが、様々なことを考えさせられる場所ではあります。

また、耳塚のすぐ近くにあるのが豊国神社です。秀吉は死後豊国神社にまつられましたが、豊臣氏滅亡後家康はこの神社を廃絶しています。明治になって再興されたのが、現在私たちが目にする豊国神社です。また、国立博物館とこの神社の間にある巨石による石垣は、かつて秀吉が建てさせた大仏殿の遺構です。秀吉の大仏は慶長地震で倒壊するなど災難が続き秀吉の生前には完成せず、秀頼の時代になって一度は完成しましたが、その開眼供養が家康によって延期を命じられました。その原因となった「国家安康」「君臣豊楽」の銘を持つ梵鐘が、現在は豊国神社のすぐ隣りの方広寺に残されています。この鐘銘事件が豊臣氏が滅亡する大坂の陣につながったことは、しばしばドラマなどにも登場する通りです。大仏は、結局17世紀半ばに地震で大破してしまったそうです。

一応の天下統一とは言いながら、豊臣秀吉は最大のライバル徳川家康に遺児秀頼の後見を託して、伏見城においてその波乱に満ちた生涯を終えました。豊国神社の境内には伏見城の遺構と伝えられる国宝の大唐門が移築されていますが、「難波のことは夢のまた夢」の時世を残した秀吉とその一族の栄光と滅亡、あるいは光と影を考えずにはいられないものが多数残るこのエリアの見学は、短時間ではあったものの生徒に何かを残したと思います。

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この後は、清水坂に向かい、暫時自由時間をとったあと、豆腐料理の順正へ。家ではともかく、外食で湯豆腐というのは、生徒にとっては珍しかったようです。豆の味がしっかりと感じられる京風の豆腐を、ゆっくり味わっていました。

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夕食後は、五条烏丸町にあるホテルに到着。明日はいよいよ班別行動です。

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